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神戸女学院大学 宗教センターです。

神戸女学院大学 チャプレン室宗教センター

〒662-8505 兵庫県西宮市岡田山4-1

学院標語

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。
        隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイによる福音書22章37節-39節)


 神戸女学院の学院標語「愛神愛隣」はマタイによる福音書22章に記されたイエスの言葉からとられたものですが、これは元来、旧約聖書の中に個別にでてくる言葉を重ねたものでした。 前半の「愛神」は、申命記6章5節に由来するもので、ユダヤ人が「シェマー」と呼ぶ、律法のなかで最も重要視された条項です。そして後半の「愛隣」は、レビ記19章18節がオリジナルで、これは後に欧米人によって「黄金律」と呼ばれました。 いまも申しましたように、わたしたちの学院標語は、マタイによる福音書22章34節以下のイエスの言葉からとられています。わざわざこういう言い方をしたのは、「愛神愛隣」にあたる言葉が、福音書中の別の箇所で、イエス以外の人物によっても語られているからです。たとえばルカによる福音書10章27節では、ある「律法の専門家」が同じ言葉を口にしています。
 ですから、この言葉自体は、イエスが生きていた紀元1世紀前半のユダヤ人社会で、一般に流布していたであろうことが推測されます。隣り合って接しているわけでもない聖句がこのように結び合わされるとは、とても不思議な気がします。 そのような結び付けを最初に行った人物は、イエスの数十年前に生まれたラビ・ヒレルという紀元前1世紀のユダヤ教の教師だと言われます。彼は旧約聖書を徹底的に読みこみ、神を愛することと隣人を愛することが同じ意味だ、そしてすべての律法はこれに結集するのだと申しました。後に成立するヒレル派は、ユダヤ教最大の教派であるファリサイ派の中でも最大の学派の一つになります。新約聖書に多くの文書を残したパウロもヒレル派の人でした。彼の先生であったとされるガマリエルがヒレルの弟子だったからです。パウロはガラテヤの信徒への手紙5章14節で、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」と記していますが、あるいはヒレル的な信仰が根底にあったと解するべきなのかも知れません。
 にもかかわらず、当時のイスラエルでは、隣人への愛を忘れた律法主義が世を覆っていたといいます。なぜでしょうか。 一つ考えられるのは「愛神愛隣」が当時の社会の中で、悪い意味での「教科書的」な模範解答となり、その本来の精神がどこかに置き去りにされていたのではないかということです。先ほどあげたルカによる福音書10章で律法の専門家は胸を張って「愛神愛隣」を「永遠の生命」を得る最上の戒めだと答えました。「永遠の生命」にはその社会における最上の価値という意味も、また文字通り不老不死という意味もあったでしょう。それに対してイエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と答えます。ここを原文のギリシア語から直訳すると「正しく、あなたは答えた。それを行え(原語でポイエイ)、そして、生きよ(原語でザーオー)」と訳せます。この最後の部分は、わたしたちの日本語聖書のように、「命が得られる」という名詞の目的語と動詞ではなく、ただ一語「生きる」という動詞の命令形で簡潔に語られています。
 この言い回しにはずいぶん皮肉なニュアンスが含まれています。どのようにしたら「永遠の生命を得られるか」と問う人に、肝心の「永遠」をとって、命令形で「生活しなさい」とだけ答えているのですから。すると律法の専門家は「自分を正当化しようとして」、イエスに「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねます。そうして、イエスは、あの有名な「善きサマリヤ人」の譬を話されたのです。(ルカ福音書10章30節から35節)この譬について、いまは細かく書くことができません。ただ譬を締めくくる「行って同じようにしなさい」という言葉を原文で見ると、28節の「実行しなさい」と同じポイエイという命令形が使われていることから、ここにもやはり先と同じく皮肉な響きを読み取れると思います。そのようなやり方で「永遠の生命」を得られると思うなら、「やってみろ」と。 イエスはこの譬で、隣人についての「知識」ではなく、隣人と「なる」という生き方を語ったと読めます。そのように「生きよ」(ザーオー)と。あの律法の専門家は、どのようにしたら「自分が」願いを実現できるかと、言うなれば、利己的な問いを発しました。
 話は横道にそれますが、私たちはあの大震災の際、たとえ自分だけよい目を見ても、周りの人がつらい中では何もうれしいと感じられないことを、身体全体で学びました。隣人と喜びをともにすることの意義深さ。それが神の喜びにもつながる、と。ですから彼の問いがもつ愚かしさはよく分かるのです。もっとも、人がそれでも利己心に走ってしまうことも、全然理解できないというわけではありません。 いずれにしても、かつてラビ・ヒレルが指し示した旧約の重要なメッセージは、踏みにじられてしまいました。
 イエスは改めて、神を愛することは隣人を思う中で学ばれると言います(ヨハネの手紙T4章7節)。 もちろん、わたしたちが本当に神さまや隣人を愛することができるのか、偽善ではないかという、根強い疑問や不安はあります。わたしたちの意思や力は、とても貧しいものだからです。するとわたしたちには、結局のところ、人を踏み台にする生き方に走るしかないのでしょうか。裁かれるような道を選択するしかないのでしょうか。聖書は、神が私たちの弱さを思いやることのできないような方ではないと述べます(ヘブライ人への手紙4章15節)。神は、人を裁く方ではなく、救う方であり、「できるところまででよい」とゆるしてくださる方であると(ヨハネ3章17節)、そしてわたしたちの愛とは呼べないような、とるに足らない死んだような貧しい営みに、生命を与えて、それを豊かに用いてくださる方であるというのです。であるならば、わたしたちは臆することなく、与えられた力を安心して、隣人へと向かわせることができるのではないでしょうか。「神を愛する」とはそのような神を信じるということです。
  卑近な例になりますが、日本には何かいただいたときに「お返し」をする習慣があります。相手と自分の関係に応じて、暗黙のうちにそのお返しに関する取り決めがあるように思えます。多すぎても少なすぎても失礼にあたるという、なかなか難しいものです。それでも相手の社会的な立場が分かれば、容易にそのお返しの程度は決定できます。では相手が神さまの場合はどうなるのでしょうか。愛神とは神さまからの愛に対するお返しなのでしょうか。するとそれはどの程度に行う必要があるのでしょうか。聖書は、それは神さまを信じることだと言うのです。私たちが隣人になす貧しい業を、愛へと高めてくださるという神さまを信じることだと語るのです。「愛神愛隣」という標語には、そのような神さまについてもっと学んでほしいという神戸女学院の祈りが込められています。           院 長  飯 謙

年間標語 2024年度

忠実な良い僕だ。よくやった。
お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。
                               (マタイによる福音書25章23節)


 主イエスのたとえ話からの引用です。 ある主人が僕たちに自分の財産を委ねて旅に出ました。一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けました。旅から戻った主人に5タラントン預かった僕が、活用して増やしたことを報告します。主人は「忠実な良い僕だ。よくやった」と褒めるのです。ちなみに2タラントン預かった僕も同様でしたが、1タラントンの僕は地の中に隠して何もせず、主人から叱られました。
 「タラントン」はギリシア語で当時の通貨単位であり、「才能」や「能力」を表す英語のタレントの語源となった単語です。つまり、神(主人)は人(僕)それぞれに才能や能力を預けられており、人はその賜物を充分に活かして隣人の喜びのために用いることが求められているのです。 神戸女学院創立者の一人、イライザ・タルカット先生の墓地にはこの聖句が刻まれています。150周年を目前にした私たちの生きる姿勢が問われています。
                             学院チャプレン 中野 敬一

年間標語 2023年度

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 (ローマの信徒への手紙12章15節)


 シンプルでわかりやすい聖句です。内容も理解しやすく、多くの人々から共感を得られてきた言葉です。自分の喜びを共に喜んでくれる人がいたことで喜びが増し加わった、あるいは、悲しみに寄り添ってくれた人がいて大いに慰められた、といった言葉もしばしば耳にすることでしょう。  そのような体験をされた人が、今度は自分が他者の喜びや悲しみに寄り添い、共に喜び、共に泣くという方向へ自身を向けられるのは素晴らしいことだと思います。人が自分本位に終始するとき、「愛」はその力を失います。逆に隣人と積極的に関わろうとする時に「愛」は輝きを増します。そして、その関わりを自分の近親者のみでなく、さらに広い意味での「隣人」に向けることを聖書は促しています。愛のあるところに神は祝福を与えられます。その愛が世に満ちあふれる時こそが、主イエスの説かれた「神の国」実現の時となるのです。  今年は神戸女学院の創立者イライザ・タルカット、ジュリア・ダッドレーの両宣教師が来日された1873年から数えて150年となります。見たこともない国の、全く知らない隣人と出会うためにアメリカを発ち、未来を生きる人のために心血を注いでくださいました。隣人の喜びを自分の喜びとし、隣人の悲しみを自分の悲しみとしてくださった先達の尊い姿を私たちはあらためて想起する必要があります。  与えられた恵みを自らのうちに留め置くだけでは愛の輝きが閉じ込められ、やがてその光が失われれることにもなります。神戸女学院は創立以来、聖書の教えに耳を傾け、その教えを体現する人物を世に送り出すという大切な使命が与えられてきました。教育の根幹にある「愛神愛隣」の理念と、それを具体的に表している今年度の聖句を心に留めながら、この教育を学院でさらに豊かに展開できるよう、皆様と祈りを合わせたく存じます。
                             学院チャプレン 中野 敬一

年間標語 2022年度

常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。 (箴言3章6節)


 聖書の教えは、望ましくない現状が前提となっています。たとえば、「人を裁くな」という教えがあるのは、自分の言動を省みず、他者を裁く人が多いというのが現状だからです。あるいは、「互いに愛し合いなさい」と教えられるのも、現実はそういう状況ではないことがわかります。もしそれが十分できているならこのような教えは不要です。  
 今年度の年間聖句においても「道筋をまっすぐにしてくださる」というのは、「まっすぐではない」という現状の認識が前提となっています。「まっすぐ」は文字通り「直線」を指します。人がその道筋を直線のままに維持できないのは何故でしょう。人のエゴや弱さといったことも理由になりますが、そもそもは自分自身で「まっすぐ」に歩んでいるかを確かめることが難しいからではないでしょうか。自分としては「まっすぐ」に進んでいるつもりでいても、端から見るとそうではないのは往々にしてあることだと思います。自分の欠点には気付かず、他者を批判して裁いているのが私たちなのです。  
 ではどうすれば良いのでしょうか。「まっすぐ」を維持するためには聖書を通して与えられる神の御言葉を聴くことが重要となります。御言葉と照らし合わせて、自分がまっすぐでいるのかそうでないのかを確認して修正を行うことが私たちに勧められているのです。まさに生き方の基準を示す聖書は神の恵みなのです。  
 さて、2025年に迎える創立150周年が近づいてきました。それを念頭において今年度の聖句候補をチャプレン会で選びました。学院の歴史における大きな節目の時期に向けて、常に主である神を覚えて聖書の御言葉を聴いてまいりましょう。私たちの道をまっすぐにしてくださる神のお導きを信じ、建学の精神「愛神愛隣」の歩みを進めていきたいと願っています。
                             学院チャプレン 中野 敬一

年間標語 2021年度

人にしてもらいたいと思うことは何でも、
あなたがたも人にしなさい。 (マタイによる福音書7章12節)


 学院永久標語である「愛神愛隣」の「愛隣」の基になる聖句は「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)です。それを別の言葉で言い換えたものが、今年度の学院標語です。つまり隣人愛とは「人にしてもらいたいと思うことを人にすること」だと主イエスは説明されているのです。
 類似的教訓は古今東西にも散見され、「黄金律」(Golden Rule)と称されています。ただし「人にしてほしくないことは人にするな」といった類例のほうが多いようです。例えば、孔子が論語で「己の欲せざるところは、人に施すことなかれ」と諭しているのはよく知られています。古代ユダヤ人の宗教的文書(キリスト教の「旧約聖書続編」)にも「自分が嫌なことは、ほかの誰にもしてはならない。」(トビト記4:15)とあり、他宗教の経典にも記されています。
 「人にしてもらいたいことを人にせよ」と「人にしてほしくないことは人にするな」は、一見すると同じ内容にも思えますが、前者のほうが積極的に人と関わって援助しようとする姿勢が伝わってきます。後者は処世術として効果的かもしれませんが、人との関係を構築する力にはなりません。
 「人にしてもらいたいこと」は主観的であるがゆえに、自分の行動がお節介になるのではないかと恐れることもあります。けれども相手と立場を入れ替えてみて自分がそれを望むと思うのならためらわず行動してみるべきだと思います。大切なのは実際に「すること」でしょう。そこに行為の大小は問われていないのです。主イエスの「何でもしなさい」という言葉が後押ししてくれています。たとえ小さな行為であったとしても、それを受ける相手にとっては大きな喜びや慰めになることがあるのです。勇気をもって聖句の実践に励みたいと存じます。

                             学院チャプレン 中野 敬一

年間標語 2020年度

主は人の一歩一歩を定め
御旨にかなう道を備えてくださる。      (詩編37編23節)


 人生の旅路を歩む私たちには、数多の選択肢が示されています。一瞬で人生が変わるほどの大きな選択と日々の生活における小さな選択といった違いはありますが、その大小にかかわらず、選択した結果によって人生が左右されることは少なくありません。
 それゆえに人は進路について悩み、自らの決断に不安を覚えるようになります。また、過去の選択に後悔して自信を失い、その後の人生の足取りが揺らいでしまったりするのです。
 残念なことに、人はどの道を選ぶのが最善であるかを知ることはできません。先を見通す能力はなく、そこに人の「限界」があります。けれども、揺るぎの無い確かな足取りで日々を歩みたい、結果として豊かな人生を得たいといった願いを諦めてしまう必要はありません。
 この詩の作者は「主に信頼し、善を行え」(3節)と勧めています。「善」は多くの意味を含む言葉でありますが、主なる神と隣人に喜ばれる行為に関係しており、それは「愛神愛隣」を実践することへと繋がります。どの道を行くべきか、という選択に私たちが迫られる時こそ「愛神愛隣」が輝きを増すように思います。愛神愛隣の視点から考えてみることで、自ずと選ぶべき道が示されるのではないでしょうか。
 示された道へと進む一歩一歩は、主が定めてくださると詩人は語ります。主が備え、その足取りを揺るがぬ確かなものとなるよう支えてくださるのです。愛神愛隣に生きることを願う私たちの歩みが確かなものとされ、神戸女学院が御旨にかなう歩みを続けられることを祈ります。

                             学院チャプレン 中野 敬一

年間標語 2019年度

恵みの業をもたらず種を蒔け
愛の実りを刈り入れよ。      (ホセア書10章12節)


 神戸女学院第3代校長であるブラウン先生の時代に、毎年聖書の一節を選び、これをその年の「年間標語」にすることが始められました。1889年がその最初であり、今年でちょうど130年を迎えます。一つ一つの事柄に歴史の重みを感じています。
 さて、創立150周年の節目が近付いている時期に相応しい聖句が与えられました。豊かな刈り入れを迎えるためには、種を蒔く作業が不可欠です。私たちは神の御心を問い続けつつ、自らの務めを再確認することが重要となります。蒔かない所に実りは無いのです。
 この聖句の後には「新しい土地を耕せ」という言葉が続きます。既存の恵みに満足するだけではなく、新たに開墾していこうとする気概が求められているように思われます。ただし、闇雲に突っ走ることが奨励されているわけではありません。興味深いことに、「新しい土地を耕せ」という言葉を「灯火を輝かせよ」と訳している聖書があります。先達から受け継いできた知恵の灯りを手がかりとして先へと進むことの大切さが教えられているように思われます。
 「愛神愛隣」の灯火を輝かせて、皆様と日々種を蒔く作業に励んでまいりたいと存じます。

                             学院チャプレン 中野 敬一

年間標語 2018年度

おのおの善を行って隣人を喜ばせ、
互いの向上に努めるべきです。  (ローマの信徒への手紙15章2節)


 紀元1世紀のローマの教会には、信仰の「強い者」と「弱い者」が存在したとあります。信仰の強弱は信仰歴や経験値の差を指すのではありません。教会のなかには、ある種の慣習を容易に捨て去ることができない「弱い者」がいたのです。強い者は、弱い者の考えに理解を示そうとはせず、両者には対立が生じました。
 そのような状況下で、この言葉がパウロによって語られました。まず15章1節で「強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と諭し、強い者は弱い者を切り捨てるのではなく、その弱さを自分のものとして引き受けることを勧めています。「強い」からこそ「弱さ」を担うこと、つまり、自分の益に終始するのではなく、相手の益について考えることをパウロは主張します。この文脈において、自分の満足を求めるべきではなく(直訳:「自身を喜ばせないようにし」)、隣人を喜ばせるように、と展開していくのです。
 パウロのこの言葉は、自己本位に生きる者への警告でもあります。ただし、自己の喜びを抑制して隣人を喜ばせることだけが要求されているのではなく、留意すべきは、「互いの向上」という言葉です。喜ばせる側と喜ぶ側の両者にとっての向上が重要となります。与える喜びを知った者には、隣人へのさらなる奉仕が期待され、与えられる喜びを知った者には、自らが隣人愛の担い手へと導かれていくことが期待されているのです。
 また、「向上」の原語には「建てる」「家造りする」の意味もあります。互いに協力して作業を進めることで、やがて完成する建物の姿は、我々の目標のイメージです。今年度も「愛神愛隣」を実践していくために、この聖句を心に留めて、愛のわざの積み重ねを継続してゆきたいと願います。      
                             学院チャプレン 中野 敬一

年間標語 2017年度

あなたがたは神に愛されている子供ですから、
神に倣う者となりなさい。(エフェソの信徒への手紙5章1節)


 「神ってる」ということばが2016年の「流行語大賞」に選ばれました。機会にも恵まれ、期待以上の結果を出したときに使われた表現のようです。この1年間にもっとも人々の心を掴んだことばですから、世の願いも、実力以上の状況の現出にあるということなのかもしれません。エフェソの信徒への手紙が語る「神に倣う」ことも、そのような超常的な力の体得に目的を置いているのでしょうか。  エフェソ書の著者(紀元1世紀後半)がこの書を執筆した動機として、知的な認識と神秘的な儀礼をもって神との一体性が完遂されると主張するグノーシス主義との対立があげられます。この立場からは、隣人愛の具現化はもちろん、イエスの十字架さえ不要なものとなります。エフェソ書を4章の後半から追うと、「神に倣う」ことが、隣人に真実を語り、悪事と悪意を捨て、互いに親切にし、赦し合う営為の延長線上に置かれていることに気づきます。「神に倣う」ことは、神憑った事柄ではなく、他者への善意あふれる生き方を指しているのです。
 「神に倣う」は、人が「神のかたち」に創造されたという創世記第1章の記事を想起させます。このテクストは、神がそうであるように、自己中心的にではなく、他者本位に、互いに受け入れ合い、尊敬し合い、仕え合いつつ歩むよう促しています。神戸女学院はこのメッセージを受けて創立されました。
 神からの呼びかけを大切にし(愛し)、隣人を愛することは、創立以来神戸女学院が教育理念の中心に据えてきた、人間の根本的なあり方です。ドイツ語で人格形成や教育を意味する語(Bildung)は、上で言い及んだ「神のかたち(Bild)」から派生したと申します。改めて建学の祈りを心に刻み、学ぶ人、働く人、支える人、ともどもに、神戸女学院が志す「神に倣う」人へと思いを馳せたく存じます。  
                              学院チャプレン 飯 謙

年間標語 2016年度

めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
                           (フィリピ信徒へのの手紙2章4節)

 

 これは道徳の教科書にでも出てきそうな言葉ですが、1世紀の伝道者パウロの手紙に記されています。彼はこのテクストを「イエスにならう」という文脈に置きました。そのことがこの言葉を、聖書の言葉として特徴づけています。
 「注意を払う」と訳された原典のギリシア語(スコペオー)は、新約に6回しか用例のない稀少語ですが、そのうちの5回がパウロの文書で使われており、彼が大切にしていたことが窺えます。どのような意味で大切にしていたのでしょうか。
 「注意」という訳語から、この語は感情や感覚と結びつくとの印象を受けますが、辞典によれば原義は視覚と関わります。しかも何となく「眺める」といった、気持ちのこもっていない目線ではなく、自分の行動原理となるところまで「一心に見つめる」ことで、「凝視」と訳してもよい言葉です。さらに言えば、イエスのように、自ら他者の傍らまで出かけていき、その人の喜ばしい側面を発見するようにとの勧めを含意します。パウロは、他者の立ち居振る舞いを模倣する没個性的な在り方や、相手の揚げ足取りの極意を教えているのではありません。イエスの思いをそれぞれの場で活かすようにとの願いを、「注意を払う」という言葉に託したのです。
 その意味で、この語はイエスが語った「アガペー」を言い換えていると申せます。アガペーは「愛」を意味するギリシア語ですが、類義語のエロース(自己のために自己を愛する)やフィリア(自己のために他者を愛する)とは異なり、他者のために他者を愛する、他者本位的な性格を特徴とします。
 神戸女学院は昨年140周年を感謝し、150年に向けて歩みを進めています。「愛神愛隣」がますます成熟し、わたしたちの中で生き、また活かせるよう、祈りを合わせたく思います。                       学院チャプレン 飯 謙

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年間標語 2015年度

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、
愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。(ヨハネの手紙(一)4章7節)


 この言葉は「愛神愛隣」を言い換えたフレーズとして、神戸女学院のチャペルでもしばしば読まれ、愛唱されています。 けれども「互いに愛し合う」は決して簡単なことではありません。それどころか、「きれいごと」ですまされかねない考え方です。 たとえば、世界で深まりつつある争いに目を向けるとき、その思いはいっそう深まります。 憎しみの連鎖はとめようもなく広がっており、わたしたち自身も、その渦の中に巻き込まれそうです。 他方、イエスは「敵を愛せ」(マタイ5:44)とまで言うのですから、単なるスローガンで退けてはならない重さも認められます。少し背景に目を向けましょう。
 「ヨハネの手紙」は紀元1世紀末、いわゆるグノーシス主義と論争をしていたグループの文書です。グノーシス主義は、真摯に信仰を求めた人々の集団でしたが、 結果として(平板化していえば)信仰を単なる精神論に押し込めてしまいました。 それを批判する「ヨハネの手紙」の著者には、自身を安全な場所に置いて、ただ心の覚醒や安定追求に終始する、現実への当事者意識を欠いた運動、と映りました。 聖書の信仰の本質は、それとは反対に、自己犠牲を厭わず、隣人との喜びに生きる姿勢に見出されると考えたからです。 それが「愛」と訳されるギリシア語アガペーの基本的な在り方でした。
  著者らはその根拠に、「神を知っている」ことをあげます。それはどのような「神」でしょうか。 文脈を読み進むと、「わたしたち」を愛された神(10−11節)に行き当たります。神は、自分だけ、仲間だけ、一定の悟りを開いた者だけを愛するのではない、 「わたしたち」すべてを愛する方である、それが憎しみの連鎖に距離を置く「知」にもつながる、と。 ここに、本学院に連なる人すべてが身につけたい「信」と「知」が示されています。
                               学院チャプレン 飯 謙